訓練とか教育とか

相変わらず、障害のある児童のハナシとかになると、良いハナシ仕立てのものが多い。
というか、障害者が良いハナシでしか出ちゃダメということに関して、この10年、人の意識には全く変化が無いに等しい。
訓練して能力を獲得するプロセスとその手段、公教育と行政の予算みたいなことで、最近、凄まじくわかりやすいのが、奈良で、車椅子の子供を中学校にねじ込んだハナシ。
最近、ちょっとどうよと思う記事があった。考えさせられる記事ってのが、そもそも、伝聞としては失格じゃねぇのかというのは横に置いておくとして、それにしても、この記事には、いろいろ理解できないことがある。
http://mainichi.jp/select/opinion/eye/news/20090818k0000m070094000c.html

しかし、一緒に学ぶことによる効果は周囲の子どもたちに及ぶ。谷口さんと小学校で同級生だった女子生徒がこんなことを話してくれた。運動会のリレーに谷口さんも参加することになったが、校庭を1周することまではできない。同級生たちは「どうしたら明花さんに負担をかけないか」と話し合った。結局、足が速い児童が2周近く走ることになった。女子生徒は「人のことを考えるようになったと思う。明花ちゃんは普通の友達」と話した。

なんで、運動会のリレーに、車椅子の児童が参加することになったのか。
運動会で、誰が何の競技に参加するかは、恐らく学級会で決めるのではないかと思う。
どんな形式のリレーかもわからないが、参加は本人の希望か、無作為なくじ引きでも行ったのか、それとも教員が良くわからない四次元操作でもしたのか。そこが知りたい。
学校の規模はどうなんだろう。『運動会のリレー』と『走れない児童』という組み合わせを作った教室で、どんな意思が働いたのか、その上で、競技の意味を曲げて車椅子の児童に配慮するという解に、学校が求めた効果は何か。というはなし。
普通学校を選んだことによって、自らと周囲に課した負担について、もっとフラットに考えれば、決して「ええハナシ」の部類のものではない。
この混乱そのものが、バリアとは何かということについて、きちんと考えていない結果なのではないかと思うんだが、いかがなものだろう。
全ての区別が、悪意や無関心から発生するという風な印象に引きずられて、自分の頭で考えずに「かわいそう」「差別はダメ」という記号で処理するから、こうなっていくという、良い例ではないかと思うのだけれども、記者がそんな人間だからこんな風に伝わるだけで、実際はそうでもないとか、そういった真相を希望する。