セックスボランティア

人は石ころではなく、心を持ち、心の根源と動物としての欲望は、深く結びついている。
人は、石ころではないけれども、石ころの種類を、いろいろ選別して効率を求める社会を形成する動物である以上、この手のジレンマには簡単に陥る約束になっている。
感情も絡む、生理の処理にあたる行為。これを、信頼関係から自然に発生する普通に親密な行為として、自分の人間関係の範囲内で共有できるような関係作りは、人には可能なのか。そんなメンタリティの社会を作ることは可能なのか。接触によるコミュニケーションを、ボノボのホカホカの域まで持っていくことは、人間には可能か?
ん?乱交セックス教団にも五分の理ってところまでは、案外簡単に行き着ける感じですな。でも、これも社会に対しての単純なアンチ。罠でしかない。
そもそも、この本、特に気にもならなかったのに、家人が買ってきたせいで、つい読んでしまった。結果的に、こうやって横道にそれる原因にしかならなかった。
著者は何を意図していたのか、戸惑いしか伝わってこない本だった。メッセージの無い、戸惑いの無秩序な伝播を狙ったとするなら、それも単純で軽い反社会行為に過ぎない。ずれた場所に波だけ立てても、結局何の役にも立たない例は、いくらでもある。
ところで、「愛したい愛されたい」が長く支持されるのは、単に、介護者の問題意識を許容範囲内で刺激し、見たという事実をもって、受け入れたというフラグを立てやすいからだと思うんだけれど、どんなもんだろう。著者の取材の時系列として、あっけらかんと積極的、肯定的に行動しきれない人々を見てきた後、ビデオのスタンスに胸打たれたなら、やはり、単なる際ネタいじりだったのかと、受け止めざるを得ない。あ、いや、断定はよそう。この件に時間使うのはここまで。